◆モスクワにて 〜「鍵おばさん」

 モスクワでの話。
 日本を昼間に出発すると、現地に到着するのは夕方。
当時はゴルバチョフ首相のペレストロイカで少しづつ情勢がかわってゆく、まさにそんな頃だった。

 とはいうものの、対外国人に対してたとえばホテル等は指定したところにしか泊まることができなかった。(現在はどのような状態なのかまったくわからないが。)

 チェックインのしかたも独特で、とにかくネームリストを手にスタッフをつかまえることからはじめなければならない。一見、忙しそうにしているのだが、そのネームリストの下に煙草(当時はマロボロが人気だった)を忍ばせると、まるで当たり前のように真っ先にチェックインしてくれたりする。いわゆる悪徳商人が、まんじゅうの箱のなかを二重にして小判をいれておくようなものである。

 当時、チップとして喜ばれる、といわれていたものには煙草、そしてストッキングや口紅、マニキュアの類はベッドチップとして重宝した。本当かどうか定かではなかったが、使いかけのものでもかまわない、などという情報まで流れていた。

 エレベーターは奇数階にとまるものと偶数階にとまるものがあり、場合によっては何階までしかとまらない、ということもある。たいがいチェックインを済ませたころは疲れてボーッとしているので間違えやすい。おおきなスーツケースをころがしてこの乗り間違えをしてしまうとまさに最悪。部屋にたどり着くまでに何十分か損をしてしまうのだ。

 ようやく自分の部屋の階にたどりつくと、各階にいる「鍵おばさん」に鍵をもらわなければならない。(ようは彼女がその階の部屋の鍵の管理をしているのだ。)そして長いながい廊下を歩き、ようやく部屋にはいれるのだ。

 いつもそのころになると張りつめていた気持ちがとぎれて、睡魔と空腹が一度におそってくる。時間なんてわからない。とにかくシャワーをあびて、空港で出発するときにかっておいたものでとりあえず空腹を満たして寝る。あとは明日になってからだ。

 そんなふうにしていつものようにモスクワ第一日目が終わっていくある日のこと....。
ホテルの部屋は内側からかける鍵がない。だからいつもは椅子とスーツケースをドアにおいて、すぐに外から人が入ってこないようにしていた。
ところが、その日はかなり疲れていたのかそれをしないで寝てしまったのである。

「コツ、コツ、コツ......」

ドアの外で足音がとまった。
部屋に明かりがさしこんでくるのがわかる。

「ドサッ」

人の気配の直後、何か重いものが部屋の中に置かれるのがわかった。

(なんだろう......?)

 気がつくとまた部屋は闇である。
ドアに背を向けて寝ていたのだが、しばらく動けないでいた。
もしも、人がいたらどうしよう?しかし、このままでいるわけにはいかない。
さすがに目が覚めてきた。電気をつけるのにも勇気がいった。

 思い切って明かりをつけてみると幸いなことに人はいなかったが、そのかわりに大きなスーツケースが2個置いてある。そのタグをみてみると、ロンドンからのものだった。とりあえず、人の侵入はなかったものの、よく考えてみると部屋をダブルブッキングされているかもしれないことに気がついた。だとしたらそれこそスーツケースの持ち主がこの部屋には入ってくる確率だってあるのだ。パジャマの上からトレーナーをとりあえず着て、「鍵おばさん」のところへいくことにした。

 普段は一人なのに、夜のせいか二人いる。しかし、案の定、まったく英語が通じない。
仕方がないのでジェスチャーをまじえつつ、とにかくそのスーツケースをいますぐに取りに来てくれるように頼んだ。部屋番号もひかえていたので、とりあえず大丈夫であろうと判断して部屋へ戻った。

 ところが、である。待てど暮らせど取りにこないではないか。不安のおかげで頭はますます冴えてくる。それはいいのだが、とにかく最悪の事態が頭をかけめぐってしまうのである。これは自分で持っていくしかない。まず、自分で持っていけそうなほうをひっぱって、長い廊下を「鍵おばさん」のところへ急いだ。

 さっききた娘が今度は荷物をひっぱってあらわれたのだから彼女達も驚いたに違いない。
私のあまりにも不安そうな状態を察してくれたのか、大きいほうのおばさんが、一緒に部屋までついてきてくれた。肩を抱いてロシア語で私に話しかけながら、頬にキスをしてくれた。まるでアメリカ映画のワンシーンのように。
(しかし、そう言った習慣がない日本人としては動揺をかくしきれなかったが)

 思い起こしてみると、よほど情けない様子だったのだろう。東洋人の小娘がなんだかわからないがロシア語も話せないのに「スーツケースが....」と必死だったのだから。

 ようやく2個目のスーツケースも部屋からなくなり、ふたたびベッドで横になった。言葉はまったくわからなかったが、おばさんの抱き寄せてくれたぬくもりとキスは、不安でいっぱいだった気持ちをほぐしてくれた。たとえ言葉が通じたとしても、事務的な対応をされたら、おそらく不愉快な気持ちで数日間すごさなければならなかっただろう。

 それからというもの、部屋に入ってからは真っ先に椅子とスーツケースをドアに立て掛けるようにした。おかげで、他人の侵入はなかったが、このなんとも奇妙なホテルのシステムに慣らされてしまう自分が滑稽でもあった。

 このモスクワ線を乗務している間にはほんとうにさまざまな経験をした。

 また少しずつ書いていきたいと思う。

 

 

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