◆ スチュワーデスへの道 〜入社教育合宿・後編

合宿の日程は順調にこなされていった。
ただ、面倒なのは6時に起床して、その30分後に体操をしたり軽くジョギングしたりすることだった。前日に早く寝ればよいのはわかっていても、就寝時間を過ぎてからもついつい話し込んでしまうことが多かったのが災いしていた。

講義の方もただ「受ければよい」というのとは違っていた。五人くらいずつの班に分かれて与えられたテーマを話しあい、それをみんなの前で発表する。そしてその発表に関してディスカッションをするので「居眠り」をしている時間はない。学生のときのようなわけには行かない。

そんな中、私がグループの意見を発表することがあった。もともと人前で何かを話すことは苦ではないので、人が聞いていようといまいと、それなりに話をしてしまうのだけれど、今回は今までと様子が違う。なんとなく「みんな聞いてくれている」と言う雰囲気が私を饒舌にさせていた。
「一体何なのだろう?この話しやすい雰囲気は・・・」
普段、自分が大勢の人の前で何かを話すとき、無意識に、
「この人は聞いてくれている!」
という人を目で探して、その人に話しかけるように話を進めるようにするのが常だった(目線は全体を見ているのだけれど)。しかし、今回はそんなことをしなくても、「みんな話を聞いてくれている」と言う気持になる。なぜだろう?

自分の発表のが終わって席についてもその理由がよくわからなかった。次の発表が始まってしばらくしてからようやく私はある現象に気がついた。自分を含めて、話をしている人へ相づちを打つように、頷きながら話を聞いていたのだった。みんな就職試験のためにしていたことが、いつの間にか身に付いてしまっている。習慣とは恐ろしいものだなあ、と思いながら、その様子が滑稽に思えた。

しかし、ちゃんと聞いているかどうかは別として、頷くことで発表している人に、
「私はちゃんと聞いていますよ」
という合図になる。一方、発表している側もその雰囲気の中で話しやすくなる。やはり態度で示すのとそうでないのとでは、その場の雰囲気もがらっと変わる。
「黙っていればわかる」
なんていうのはもう昔の話だ。やはり自分も参加していること、ちゃんと聞いていることを態度で示さなくては。

さて、体育の授業のほうは、ほとんどお遊びなのだけれど「競争」させるのでこれも気がつくと真面目にやってしまっている。面白かったのは「木更津旋回」というゲームだった。チーム対抗で競うもので、スタート地点から五十メートルくらい先に野球のバットが置いてある。そのバットの所まで走って行き、そのバッドを地面に立て、先端を両手で押さえてからそこに額をのせる。そして、バットを軸に三回転する。それから手を飛行機のように広げながらスタート地点まで走って戻ってくるのだけれど、これが結構難しい。リレーなのでとにかく「急ぐ」。そうするとバットのところで「早く廻る」。するとおかげで「目が回る」つまり「まっすぐ走れない」ことになる。
「負けたチームは罰ゲーム!」
なんて言われていたが、残念ながらその内容を覚えていないところを見ると、私のチームはおそらく勝ったのだろう。

合宿中は雨になることはなく、無事最終日を迎えた。

担当のリーダーとともに記念写真を撮った。合宿とあってみんなラフな格好をしている。当時の写真を見てみると、一部を除いて、化粧っ気があまりない。写真の写り方も慣れていないし。でも、なんだか楽しそうに写真におさまっている。
しかし、中には相変わらずばっちりとお化粧をしている人もいた。モノレールで一緒だったきれいな彼女もその内のひとりだった。
特に日焼けを気にしているらしく、外で運動をしている最中も、
「もう、日に焼けちゃうわ!」
となるべく日陰に避難し、
「笑ったところがしわになるんですって!」
と言っては、大笑いしたあとは必ずコンパクトをとりだし、その鏡で笑った時にできたしわを確かめるように、ぱたぱたと顔を手ではたいていた。はたしてそれにどんな効果があるのか私にはわからなかったけれど。確かに女優さんでも「しわ」になるのを恐れて、普段は笑わないようにしている人もいると聞いたことがある。でも、自分は女優でもないし、仕事をする相手はブラウン管の向こうにいるわけではなく、目の前にいる生身の人間なのだからと割り切って、化粧っ気のない顔で楽しいときには思う存分に笑った。怒りじわならともかく、笑いじわならあったほうがいいんじゃない、と私は思っていた。

やはり、「美しさ」を保つためにはそれなりの「秘訣」があるわけね、と感心しつつ、一方では、彼女は明らかに自分とは違う価値観を持った人で、私が苦手とするタイプの一人であることがわかった。

そう言えば、学生時代に同じようなタイプで、コンパニオンのバイトをしているという人がクラスメイトにいた。あるとき、
「マニキュアのモニターしてくれない?」
といって私の仲の良い友達に頼んでいたことがあったけれど、一緒にいた私は見事にスキップされたことを思いだした。

彼女にしてみれば、普段からマニキュアをしているような人だけにモニターを頼みたかったのはわかるけれど、その場にいた私はなんとなく傷ついていた。彼女がいつも一緒にいる友達はそれは「派手」で、冬には毛皮を着て登校するような人たちだった。あたり障りなくクラスメイトとしての付きあいはしていたものの、価値観が対照的な私は仲よくなるはずもなかったし、彼女達も私を相手にするはずもなかった。でも、不思議とテスト前になると必ず私のところへやって来て、
「ノート貸してくれない?」
と言うのだ。彼女は授業中、ノートをとるかわりにアルバイトのコンパニオンをするときに必要な商品の説明を覚えているか、あるいはバイト疲れのためか居眠りをしていた。別に減るようなものでもなかったので、ノートはいつも貸していたけれど、だからといって彼女と私の関係が変わることはなかった。結局、彼女は追試を受けつつなんとか卒業し、頑張っていたアルバイトのコネも手伝ってマスコミ方面へ就職が決まったらしい。

結果はどうであれ、私はこういった「要領の良い人」は苦手だ。もしかしたら、要領の悪い者のやっかみなのかもしれないけれど。

そんなことを思い出しながら、あの「きれいな人」に対しても同じような思いが蘇ってきた。おそらく彼女とは表面的には付き合うことはあっても、それ以上のことはないだろう。とはいえ、これからは職場の人間として一緒に訓練を受け、場合によっては仕事をしなければならなくなる。学生時代だったらこういった「合わない人とは付きあわなくてもいい」状況も、これからはそうもいかなくなる。社会人になることの煩しさとは、もしかしたらこんなことなのかもしれない。

こうして合宿での生活は終わり、一日おいて今度は訓練センターで座学開始。「通学」ならぬ「通勤」がいよいよ始まる。

社会人になる、ということはいろいろな困難が待ち構えている。そんなことをおぼろげながら感じ始めていた。

 

 

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