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スチュワーデスへの道 〜 思いがけない事故
1985年8月12日。
その事故が起きたころ、私は電話で友達と話していた。
居間にあるテレビにふと目をやると、ニュース速報のテロップがながれていた。
「羽田発大阪行きのジャンボ機123便が行方不明・・・」
話もそこそこに受話器を置いて、テレビに見入る。
時刻は19時をまわっており、ちょうどニュースが放映されている時間だった。
チャンネルをNHKにして、その後の速報を待つことにした。
その後、123便が墜落していたことはわかったが、自衛隊がその位置を確認したのが事故から1時間半後。場所は群馬県上野村の御巣鷹山山中だった。その日は、すぐに救助隊が入ったものの、その近くまで行く道が存在しないことがわかり、結局現地では活動できず、断念。
翌日になってから救助活動が行われることになった。
これは正に私が受験している航空会社の事故だった。
しかし、テレビからの「映像」がなかったことで、事故そのものがおこった実感だけでなく、その惨事の度合いすら想像することはできなかった。だから、その日はさほどこの先の就職試験を受け続けるべきかどうか、という切実な気持ちは湧いてこなかった。
その翌日、学校の授業は午後からだったので、私は家でテレビを見ながら昼食をとっていた。すると、突然番組が中断され、昨夜の事故現場での救出活動の模様が映し出された。それは、自衛隊のレスキュー部隊がヘリコプターから降下して救援活動を行っている場面だった。
「生存者が見つかったもようです!」
アナウンサーの声とともに画面にその姿が映る。
映し出されるかぎり、あたりは道などもないような山の中。
「これでは夜に救助活動ができなかったのも無理はない」
と思われるほどだ。そんな閑散とした山中にジャンボ機の破片がちらばって、白く光っている。座席と思われる部分、救命胴衣、荷物、靴・・・・。
生存者がいることがかえって不思議に見える光景がそこには広がっていた。
こうしたテレビの画面を通じて、この事故が「現実」として私の中にようやく認識された。
飛行機に乗ることはこういった「危険」といつも背中合わせなのだ。
重い気持ちを引きずったまま学校へ向かった。
同じクラスの「志願者」の友達とも自然に事故の話になる。
「どうする?受験やめる?」
「でも、二次試験の途中まで通っているし・・・。」
いろいろな可能性を話せば話すほど、所詮スチュワーデスは高嶺の花、という気がしてくる。「まあ、受かる確率の方が低いわけで・・・。」
「事故っていったって自動車事故にだってあう確率はあるわけだし・・・」
確かに、こうしている間にも自動車事故などは頻繁におこっている。
頻繁に飛行機事故はおこるわけではないし、その規模が大きいだけなのだ。
ということは、その事故の確率からいっても、自動車よりも安全な乗物ともいえるのではないか。話しているうちに、なれるかどうかもわからないのに今から気をもまなくてもいいのではないか、という結論に達した。
「受験そのものに意義がある」
というわけのわかるようなわからないような言い訳をつけて、このまま試験を受け続けることにした。
そして、ある日のこと。
その事故の全貌が少しづつ明るみにされ、どんな人たちがその123便に乗っていたのかがわかるようになってきたころだった。
帰宅すると母が、
「とにかくご飯を食べて。そうしたら話しがあるから。」
「なあに、いったい?」
「いいから食べちゃって・・・」
なんだか意味深長な言葉に不安な気持ちになっていく。
とりあえず食べ終わり、お茶を飲んで一息つくとようやく母の口が開いた。
「実はさっきSさんから電話があってね・・・」
Sさんとは英会話のときにお世話になっている会社の人のことだ。
「英会話でお世話になった先生がいらっしゃるでしょ、外人の。その方がね、亡くなったんですって。それでその葬儀があるので出席して欲しいって・・・」
「どうして亡くなったの?」
「・・・・それがこの間の123便に乗っていらしたんだそうよ。」
頭の中が混乱していた。どうしてその便に乗っていたのだろう?しばし呆然としてしまった。
母が先に食事をするように言ったのは、その知らせで私が何も咽に通らなくなる可能性を考えてくれたからだったのだ。
あんなに人ごとだった事故が急に身近なことになってしまった。
とにかく、先生が本当にその便に搭乗していたのかどうか確信するために新聞をあさった。
ちょうど2、3日前の新聞に事故で亡くなった方々の写真と名前がリストになって載っていたからだ。
「あ・・・載ってる」
まさにその死は現実のものとなってしまった。
とにかく、気持ちを落ち着けてから同じ英会話に通っていた友達に電話をかけ、葬儀の当日の待ち合わせ場所を決めた。
そして葬儀当日。
数ヶ月ぶりに会う英会話のクラスメイトたちだったが、お決まりの挨拶の後の話が続かない。みんな揃ったところで、お寺にむかった。
重苦しい空気の中、お焼香をすませていく。
「これが本人だという証拠になった品です・・・」
それは財布と学生証だった。
財布は焼け焦げ、ラミネート加工された学生証は熱で歪んで溶けかかっており、半分は黒くなっていた。貼ってある写真が先生のものだということが、かろうじてわかるくらいだった。
これはまぎれもなくテレビで放映されていた、あの現場にあったものなのだ。
話によると、大阪で同じような英会話のクラスをもっており、その授業のために前日飛行機で移動した、ということだった。それが123便だったばっかりに・・・。
遺体の損傷は比較的少なくてすんだようだった。そして、その学生証から本人と確認されたらしい。搭乗してはいたものの、遺体が確認できないという状態はざらだったようで、そういう意味では身元確認が早くできたのは幸いといえるのかもしれない。
そこにいたクラスメイトたちにはもう言葉はなかった。ただただハンカチで涙を拭うばかりである。
先生は日本の大学に在学しており、できればこちらに永住したいと思うほど日本が好きだったらしい。そして、その気持ちをよく知るアメリカのご両親は、彼の遺骨を生前好きだった京都の龍安寺に分骨することに決めたそうだ。
帰りにみんなでお茶を飲んだ。
どんな会話をしたのかは今となっては思い出せないものの、不思議と「スチュワーデスをめざすことの不安」については一言も話題に上らなかった。むしろ気持ち的にはその逆、「スチュワーデスをめざしてがんばる」ほうにみんな向いているようだった。それがせめてもの先生への供養になるような気がしていた。
こうして「空を飛ぶことは死と背中合わせ」という現実と向かうことで、かえって自分の中の「決意」を揺るぎないものにしていた。
*日航機御巣鷹山事故
1985年8月12日19:01、羽田発大阪行きの日航のジャンボ機123便(ボーイング747SR046型機)が群馬県上野村の御巣鷹山(標高1639m)山中に墜落、乗客乗員の内520人が死亡。奇跡的に4名の女性が生還した。事故を起こした飛行機は1974年に就航したもので、まだ11年半しか飛んでいなかったが、1978年に大阪空港着陸の際、機体後部が滑走路に接触して中破した経歴があり、金属疲労で吹き飛んだのもその修理した部分だった。結果的には1978年の事故の時の修理ミスではないかとの意見もあったが、最終的な原因は曖昧なままになってしまっている。
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